大晦日に、大学在学中の小話をひとつ。
20数年前、社会人経験の後に飛び込んだ其処は、東西美術の知識を備えたギャラリストを養成する場所でした。学芸員に限らず幅広い分野に眼が届く、表現者と観客をつなぐ人材の必要性を重視した、当時はまだ目新しい学科です。教授陣も、美術家や研究者、プロデューサーや芸能者、多岐に渡る人々が集まりました。
食を表現の軸にしたいと考えていた私は、4年間あらゆる機会に恵まれ、大勢に知られる仕事が増えていきました。この調子で料理家の肩書がつく存在になれるかもしれないと舞い上がっていた矢先、教授との面談での言葉に、突如目が覚めます。「もっと積極的に生活を公開した方が売れるよ。君は有名になりたくないの?」と。
「お言葉ですが、私生活を広げて悦に入るような行為はしたくありません。私がライフワークとして能楽を研究しているのをご存知なのでしたら、意味はお判りになる筈です。」
「言い分は理解出来るよ。でもね、将来は絶対にそれが主流になる。間違いないからね。その時どうするかだね」
さて、先生。やっぱり仰られた通りの未来図になりました。手鏡の様に薄くて小さい万能の機械を通して、気が向けば遠い国の見知らぬ家庭の夕飯の様子まで同時刻に垣間見る事ができます。
今なら、最後に投げられた言葉に答えが返せます。確かにあらゆる表現を知ることは可能になりました。しかしながら「識る」まで深く降りてゆくのはどんなに優秀な道具に囲まれていても、大変に困難なことだと。簡単にわかるものは、容易く離れてゆく、私はそれに我慢がならなかったのだと。出会いと別れが安易になる過程が得意ではないのだと。青かった当時から20年過ぎても、やはり芯の想いは変わっていないようですね。
出会えた皆さまと、お顔を合わせて時間を過ごせる今が天職です。より長く、共に健やかであるように自身の才を使えるならば、これほどの喜びはありません。
新しい年も、ご一緒できますように。皆さまも、どうか本心に違わぬ日々でありますことを願っております。